●アルカン速報売却只今競売中
アルカン速報がオークションにかけられている。22時09分時点で1円なので私も楽しく入札してこようと思う。あんまりいらないけど。アルカン速報は大体2万PVくらいのアクセス数が一日あたりあると聞く。うん、当サイトが一番見られていたときの500倍くらいですね。それだけやってもアフィであまり儲からないらしいので中々厳しいというか、編集の忙しさと比べて割に合わないのかもしれません。ただ、まとめられている作品を書いた人は恐らく楽しいからやっているのであり、それをまとめる人がお金を求めるというのは何となく違和感があると言われたらそれはそうなのかも。もっとも、数多くのスレをまとめるのは重労働であり、そしてそれだけのコストを閲覧者が払っているのかと言えば疑問ですが。いろんなスレを渉猟するのも面倒な話で、その面倒を彼らがやっていると思えば、少しくらいの報酬を得ても良いのではないか……と、個人的には思います。
まぁそれはともかく、突然のエロ路線への転向や規約違反など、迷走気味だったアルカン速報。誰が落札するのでしょうね。少し観察してみようと思います。私が競り落とせたらそれはそれで面白そうですが、まぁ万が一企業が出てきたらお手上げと言うことで。
●不如帰の扱い
織田信長は殺してしまったそうだ。
その結果自分が殺されてしまった。
豊臣秀吉は鳴かせて見せようと言い切った。
最後に泣いたのは奥さんだったな!
あ、徳川家康は待っていた所、天ぷらにあたって死んだらしいです。
ホトトギスなんて待っているからだ。
私の気分としては
鳴かぬなら 仕方あるまい ホトトギス
なのですが、皆さんは不如帰を如何に扱いますか。待ちますか?待ちませんか?
私なら巻くね。
●自己言及の6年
ゆとりの全く面白くないテキストを書き始めたのが2003年なので、今年の七夕を以って6年と言うことになります。もっとも、後の2年くらいはまともに更新した記憶がありませんし、現状このサイトが機能しているのかと問われれば、甚だ答に窮する所であります。いや窮するも何も更新していないのですが。再利用の試みとか幾度となく繰り返しては結局投げ出しているあたり、このような地道な作業は苦手なのでしょう。まぁどうでもいいな。そんなことは。そんなこと知って誰が得するんだ。
この5年のことは「色々あった」と総括することでとっとと措いておきますが、ただ当時仲良くしていた人が最早連絡も取れない状態にあるというのは少し寂しいものがあります。新しく巡回するサイトを増やすにも、今テキストサイトってどうなっているのでしょうか。相変わらず有名どころは頑張っているみたいですが、それ以外のものはBlogにでも移行したのでしょうか。はたまたmixiとか。ええ、mixi楽ですよね。私もmixiなら毎日のように更新しています。まぁ無意味なこと書いてもどうせ読むのも身内なので何かしら文章を書きたいけども考えるのは面倒だ、という具合でも更新できるなんてことは誰でも知っているので書く必要がないのですが。そうそうこういう日記が並んでいるのです。こんなのでも読んでくださるとはありがたい話ですね、友達と言うのは。いやまぁ友達と私が思い込んでいるだけかもしれませんけど。
思い込んでいるだけかも、と書いて思い出したのですが、これって私がこのサイトでひたすらやってきた、狂気の沙汰ともいえる自己言及なんですよね。ここで言う狂気とは自我を失ってしまうことではなく、自我の喪失を恐れるがあまり、執拗に自己言及と自己分析を再帰的に行い、ついにはそれ自体に汲々として周りが全く見えなくなることです。そういうのを自意識過剰だというのですが、ドストエフスキーや仏教や、あるいはキルケゴールなんかが戒めているのはまさにそれです。大体自己は何か中核的な(革マルと対立している組織ではない)いわば自己自身のみから構成されていると考えるからこそ、そのような「自分探し(笑)」みたいなことになるのです。本当は自己とは自己自身と他者から成り立っていることに気づき、そのような自己言及をやめることが肝要なのではないかと思います。これは取りようによっては自己自身の絶対性を放棄し、他者に謙るような印象があるかもしれません。事実そのとおりで、それこそが磨滅した感情を復活させる第一歩となるのです。感情が磨滅しては何も考えられないというのは昨日書いた通り。何やら感情の磨滅する経緯が異なるではないかと言われそうですが、これも同じ意識と感情の乖離の問題なのです。
そういやテキストサイトのランキングサイトを見ていたら政治・思想系はお断りですとか書いてありました。そのくせ18禁は認めているのですが。いやまぁ18禁じゃ揉めませんけどね。
大体18禁のBlogといったって、気持ち悪いオッサンがネカマやっているだけかもしれないんですからね。まったくそんなの読んで誰が得するんだ。あ、うちも男の書いているのか……誰が得するんだろう。
●検索ワード
「上野千鶴子 小森陽一」で検索した人はファンなのだろうか。もしそうだとすると、彼は恐らく人を不幸にするのが大好きなのだろう。凡そイデオロギーと言う奴は人を幸福にしない。人は生きたいように生きればよいし、それがもし何かに制限されて生きたいということであれば、それを選択する自由を与えなければならない。それは言わばイデオロギーを選択する自由となろうか。今の世の中を覆っているのは公式のイデオロギーと非公式のイデオロギーの不整合だ。公式のイデオロギーは「らしさ」を否定する。「らしく」ある必要は無い、というのではなく、「らしく」あってはならないと命ずるのだ。他方、非公式のイデオロギーは相変わらず「らしさ」を要求する。そして、フェミニストとか左翼とか呼ばれる生き物は、これを都合のいいようにつまみ食いするから、当然そこには生贄の羊が必要となるのだ。
もちろん別に公式のイデオロギーに逆らって生きることも、論理的には可能であろう。しかしマスコミや学校で喧伝される「格好良さ」というか「現代的、合理的、都会的」な人間はかくあるべしといった枠があまりに強く嵌められているのでどうしようもない。もし私が男らしく生きるぞ!と宣言すればたちまち古い人間だとか、田舎者だとか、とにかく悪印象を与えることは請け合いだ。そして社会は例外者を排除する。具体的な誰かが排除するのではなく、構造的に排除するのである。だから男はなんだか息苦しい。物言えば唇寒し、といった具合に今日も生きなければならない。それは殆ど疎外ともいえる状況である。
私は別に「らしく」あるべき、と言っているのではない。ただ「らしく」あってもいいし、そうでなくても良いだろうと言っているのだ。そしてそれこそが本当の自由ではないか。「らしくあるべからず」というのは、繰り返しになるが命令だ。それは普通に生きたい女性すら不幸にする。普通に生きたいのに「普通」に生きねばならない。そして感情は磨滅し、ついには物を考えられなくなる。何故と言うに、感情は思考の契機なのだ。しかもこれまで成功してきたと思うものならば、尚更ひどいことになるだろう。おそらくは強情が邪魔をし、意識と感情の溝を埋められない。このとき謙るべき対象が、西洋人にとっては神であるし、我々にとっては他者なのではないか。他者によって始めて磨滅してしまった感情は復活する。そうでなければ、彼ら彼女らは自らの中に籠城せねばならない。感情がないのならば当然人を思いやることも出来ず、孤独は深まるばかりだからである。
最初に「人を不幸にするのが大好きな人」と書いたが、多分意識の中ではそうではないと思われる。恐らく、進歩的な「いい人」でありたいと思っている人がああいう左翼になるのだろう。ただそこがなんとも独善的である。自分が「いい人」と思われればそれで満足で、そのために多くの人を犠牲にしても構わないという発送だ。そこには、何等の他者も居ない。このような人間を断じて許しては措けない。
イデオロギーとの、容赦なき白兵戦を!
●政治空白について
民主党の菅直人代表代行は支持率の低い麻生内閣の存在はすなわち政治空白であるといった趣旨の発言を行ったらしい。しかし支持率が低いながらに一応の仕事はしているので、残念ながらそれだけでは政治空白と言うことは出来ないだろう。
しかし別の意味での政治空白が存在するとはいえる。それは我が国における政治軽視の風潮である。例えば国立大学において、政治学は法学部でも辺境の一分野とされている。 法学を修めたものは社会的地位も文系では最高位となるが、(注1)政治学を修めてもとくになんということはない。また、政治について一般の人が語るとき「俺たちの生活が苦しいのは政府が悪いんだ」くらいのことを言うことはあっても、ではどうするべきか、どのような展望を持つべきかと考える人間はあまり多くない。いざ戦略の話となると途端にお上に投げてしまう。その辺りについては根本的に無関心である。また、もし関心を持っているならば連帯せねばならないだろう。何故なら政治において数は力であるからだ。ある程度のまとまりにならないと、その意見は存在しないことに等しいのだ。ところがそれを面倒がって回避するのはやはり政治への関心がないと考えて構わない。クビになってから初めて政治について考えたり、労使の問題について考える、ではいけないのである。
これもまた、一種の政治空白と言えなくもないのではないか。我が国では最も無教養な人間が政治家になる。だから官僚は非常な苦労を強いられているが、官僚は所詮民選ではない。その活動には民主政の制度上どうしても制約を受ける。また、官僚の人選そのものが既に官吏向きの者を集めるようになっているのだから、なおさらであろう。これは官僚が悪いのではない。官僚と言う組織には向かない仕事を無教養で展望を持たない政治家が丸投げしているから悪いのである。ついでに、官僚は仕事の数に関わらず増え続けるという法則があるために、組織を守るために仕事を手放したがらない。だから余計に苦労を背負い込み、また重大な決定が行えない状況が続く。そしてこの状況を変えるだけの能力が政治家にはなく、また国民も無関心で政治の地位も低いので、能力のある人間は政治を志さない。これを政治空白といわずしてなんと言おうか。
かつて安倍元首相が入院したとき、代行は置かれなかったが国政に問題は生じなかった。普通ならば軍が動き、選挙管理内閣を作るところである。政治空白が常態化しているために、さほど問題が起きなかったともいえるが、この激動の時代に果たしてそれが通じるのか。こんな国にしたのは、誰か。
(注1)さらに、その政治学でさえ分析を行ってはいるものの、国益を如何にして増進すべきかと言った話は基本的にしない。これは国家学としての政治学なのだが、こういうものを論じることを極度に嫌うのだ。
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